الأيام لطه حسين

前回、翻訳文化について触れましたが、翻訳は、手早く何かを読みたい、知りたいという場合には、助かることがあります。

例えば、タハ・フセインの代表作である「الأيام」を読みたいと思っても、アラビア語の原書で一冊全部を素早く読むのは、容易なことではありません。

かなり昔になりますが、「الأيام」を原書で読む前に、まずは、その日本語訳の書籍である「わがエジプト-コーランとの日々、田村秀治著、サイマル出版会、1976年発刊」(今ではもう手に入らないかもしれません)を読んだことがあります。

الأيام」の最初の一文の翻訳は、
「その日がいつだったのか、何年の何月だったのか、また、時間は何時頃だったのか、彼は何もはっきりとは覚えていない。」
ですが、原文は、
لا يذكر لهذا اليوم اسما , ولا يستطيع أن يضعه حيث وضعه الله من الشهر والسنة بل لا يستطيع أن يذكر من هذا اليوم وقتا بعينه, وإنما يقرب ذلك تقريبا
となっています。

原文では、「الله」が出てくるのですが、日本語の翻訳からはこの文章中に「神」が現れるなどとは思いもよらないので、原文に触れると色々な発見があります。

この原文を直訳すると、「彼はこの日のことを覚えておらず、月日をお定めになる神とは違い、彼にはその月日を特定することはできない。また、この日の何時のことであったのかについてもはっきりとした記憶はなく、大体この位の時間であったとしか言えないのだ」というところでしょうか。

「الأيام」は長編で、あまり細部にこだわって訳していると大部になるので、翻訳書の翻訳はうまくまとめていると思います。

タハ・フセインは、マフムード・アルアッカードやタウフィーク・アルハキームと共に、近代アラブ文学の代表的な3人の一人に当たると言われますが、新聞などの文章に比べると難解な文学作品を読む前の翻訳書の存在は有り難いです。